ラポーム 2021年7月

江口冨士枝さんが教えてくれたこと

「城島充さんの『ピンポンさん』を何回も読み返しています。そのたびに当時を思い出しては泣いちゃいます。」
江口冨士枝さんは、お話しする度に言っておられました。
感激屋で“泣き虫ニャンコ”のニックネームとは、そういうことかと思いました。

1954年から1959年まで5回の世界卓球選手権大会に出場し、金6個、銀5個、銅5個、計16個のメダルを獲得。
世界を代表する女子卓球選手だった江口冨士枝さんが5月28日永眠されました。(享年88歳)

約10年間日本のトップ選手としてプレーし、世代交代した選手達と5回チームを組んで3回(1954年、1957年、1959年)の世界選手権で団体優勝されました。

「団体戦に勝つことが世界選手権大会に参加する目的で、シングルスは“付録”として戦いました」

荻村伊智朗さんと組んだ混合複では1957年ストックホルム大会と1959年ドルトムント大会に連覇。「荻村さんはどんなボールでも盛り返してくれるから楽でした。」

荻村さんは著書の中で、江口さんを、“華麗なフットワークと男子級のフォア強打”と表現されています。
江口さんの強打で得点したラリーもたくさんあったのでしょう。荻村さんも江口さんにずいぶん助けられたのだと思います。

1957年ストックホルム大会では団体・単・混合複の3種目に優勝。「1957年の江口の強さは特筆すべき堂々たるものだった。」と荻村さんは著書の中で言っておられます。

「当時の男ども(たぶん後に結婚された富田さんと荻村さんだと思いますが)は、合宿や遠征では洗濯、炊事などなんでも女子選手にやらせ、さっさと自分たちが食べ終えると「まだ食ってるのかとか、言いたい放題でした。」「こいつらに負けてたまるか!と思って男子以上に練習では頑張ったものです。」

江口さんが休憩時間にフットワーク練習をしたことや、監督から練習のやり過ぎを注意されたことなど、江口さんにまつわるエピソードは他にもたくさんあるようです。

後に江口さんは、大阪卓球協会会長、日本卓球協会副会長も歴任されました。
日本レディース委員長として中国、韓国のレディースの方々との交流に尽力されました。

江口さんからはラ・ポームを読んでの感想など、お手紙や葉書など、お便りもよくいただき、1年に何回も励ましてくださいました。

様々な苦しみにも負けず、常に強く明るく自分を叱咤激励し鍛え、選手として頂点を極め、他人に親切で優しい江口冨士枝という人は、この人こそスポーツマンといえる、すべてのスポーツマンの鏡です。

わが卓球がこのような人を持てたことは本当に幸運なことだと思います。
心からの感謝を奉げます。ありがとうございました。合掌

ITS三鷹 代表 織部幸治

投稿を共有